こんにちは、みぎです。
お友達が貸してくれて、なかなか見ることのできない
アッバス・キアロスタミ監督作『クローズ・アップ』(1990年)を見ましたよ。
キアロスタミ監督作はいくつか見ていて、
特に『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『桜桃の味』(1997年)は強く感動しました。
今作は変わった作りの映画のようですがどうでしょうか~
「友だちのうちはどこ?」などで知られるイランのアッバス・キアロスタミ監督が、実際に起きたなりすまし詐欺事件を題材に、事件の当事者による再現映像とドキュメンタリー映像を交えて描いた作品。
映画青年サブジアンはバスで隣に座った女性から話しかけられ、思わず自分は著名な映画監督モフセン・マフマルバフだと名乗ってしまう。女性はその嘘をすっかり信じ込み、彼を家に招待する。サブジアンは嘘を重ねるうちに女性の家族を架空の映画製作に巻き込み、ついには詐欺罪で逮捕されてしまう。事件に興味を持ったキアロスタミ監督は、裁判所を訪れて公判の模様をカメラに記録。さらに事件の顛末を当事者たちに演じさせて再現し、真相を明らかにしていく。
引用:映画.com
以下ネタバレあり感想
とても実験的な作りでありながらも
それでいてそう思わせない語りの面白さと、
それでも感じる虚実ないまぜになった不思議な感覚になる映画でした。
お話はホセイン・サブジアンという男が、
バスに乗っている間に出会ったアハンカハー家の人々に
実在の映画監督モフセン・マフマルバフを騙り詐欺未遂で捕まった事件を描いています。
彼はなぜマフマルバフの名を騙ったのか、
何を目的にしていたのか、
彼はどういう人物なのか、
ということが裁判と回想を通してキアロスタミ監督本人が取材していきます。
詐欺未遂として捕まりましたが
サブジアンはアハンカハー家から大金や高価な品物を騙し取っていません。
現在の日本円でいくらになるかわかりませんが、
帰り賃と財布からすぐ出せるような額しかもらっていません。
当初サブジアンは自身をマフマルバフ監督と名乗り、
映画好きなアハンカハー家の人々と映画の話をしたりしていました。
マフマルバフはカンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭でも賞を獲っている
イランの巨匠の一人です。
この事件の中では1985年公開の『サイクリスト』の話をしており、
本作も1990年公開のためまだキャリア初期の頃です。
まだ若手なのと映画監督という職業柄あまり顔を知られていないのも頷けます。
アハンカハー家の人々も映画好きですがサブジアン本人も映画好きのようです。
サブジアンは仕事もなく貧しい暮らしですが、
マフマルバフの映画にとても救われたと語ります。
彼を取材しているキアロスタミの映画にも感銘を受けているようです。
このことからすると、彼は金銭を騙し取りたかったのではなく
貧しく孤独な中出会ったアハンカハー家と
騙す形になりながらも映画を通して繋がり合いたかったようにも見えてきます。
しかし、サブジアンはアハンカハー家と楽しく映画の話をするだけでなく、
マフマルバフの映画を一緒に映画館まで見に行ったり、
アハンカハー家を主演にして映画を撮りたいと言い出しその準備まで始めていくのです。
マフマルバフ監督を名乗っているためにそのような
ただの映画好き仲間以上の行動に移ってしまうというのはそうかもしれませんが、
彼は単に心通わす友人では飽き足らず、尊敬されていたかったし、
なんなら憧れの映画制作をしてみたかったのです。
大金を絡んだ話ではないにせよとても迷惑な話です。
素性を怪しんだアハンカハー家の父が知人の記者に連絡し逮捕につながります。
そして裁判を進めていくうちに明らかになっていくのが
どうもマフマルバフを名乗ったのが今回だけでない可能性です。
裁判ではしおらしくなっており反省を口にしますが、
どうも大きな犯罪ではなくても
彼を信じられなくなるような話が少しづつ顕になっていくのです。
有名人を騙るということが、
明確に金銭目的でもなく、しかしお金を貰っている、
友人が欲しかったのかと思えば、尊敬が欲しかったようで、
たまたま環境がそうさせた同情に値する人物かと思えば過去が怪しい…。
サブジアンという人物が極悪人でないことは伝わってくるのですが
何層にも重ねられた彼の姿のどこに本当の彼がいるのかよくわからなくなっていくのです。
本当のサブジアンは彼の語る中にも観客が考える中にもないのかもしれない、
アイデンティティの実像をめぐる不思議な映画でした。
そしてここまで敢えて言及していませんでしたが
一番実験的なのは、この映画で描かれている出来事が実話で、
事件の当事者・本人たちに再現してもらっているのをカメラに収めてたものだからです。
完全なドキュメンタリーとも違いますが、
本人が実際にあった出来事を演じているのでフィクションとも違います。
(裁判シーンは実際の裁判をカメラを入れて撮影したもの)
ここで観客が見ているサブジアンの姿にさらにレイヤーがひとつ追加されます。
本心のわからない彼の言動を、本人が演技をしているのです。
いくら本人が実際の出来事を再現しているとはいえ、
それは映画のために積極的に演技をしている以上本来の姿ではないように思えます。
濱口竜介の著書『他なる映画と』1(インスクリプト、2024)で
ドキュメンタリーとフィクションの境界、そしてそこに登場する演技について書かれていました。
詳しくは著書を読んで欲しいのですが、
ドキュメンタリーの中にもカメラが回っているという意識から普段と違う動き・演技が表出し、
フィクションの台本のある演技の中でも役者の無意識的な仕草や表情、
突発的なリアクションが映し出されるということが語られていました。
映画においても日常においても演技をするということは
意図したものだけでない曖昧なものだと言えます。
また、本作と同じ手法を使った映画に
クリント・イーストッド監督の『15時17分、パリ行き』(2018年)があります。
ハリウッド映画で実際の事件を本人が演じるという実験的な手法をしているのです。
『15時17分、パリ行き』は市井の人々が日常の中で事件に遭遇し、
無差別テロを(オフの日の軍人とは言え)市井の人々が防ぐことができたという、
大枠で言ってしまえば「誰もが力を持っている」というアメリカらしいお話を
当の本人に演じてもらうことで「特別な誰かでない自分」という点を強く印象づけます。
(もちろん市井の人々が急に悲劇に遭うという点も描かれていますし、
運命論的な話でもあったかと思います。)
同じ手法でも描いているものが、キアロスタミのアイデンティティの探求と大きく違いますね。




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